4月3日(金)20時57分からの「中居正広のキンスマスペシャル」は、志村けんさんの追悼番組となる「特別放送…1年前に志村けんさんが語ってくれたこと」が放送されます。
志村けんさんは新型コロナウイルスの感染のため、2020年3月30日(月)にお亡くなりになられ、偉大なコメディアンの訃報に日本中が悲しみました。
そんな志村さんは、ちょうど1年前に、「中居正広のキンスマスペシャル」に出演され、自身の生い立ちや、いかりや長介さんへの思いを語っておられました。
今回は金スマで語られた志村さんの人生についてピックアップしてみました。
目次
志村けんがお笑いに目覚めるまで
志村けんさんは、50年間という長きにわたり日本のお笑い界のトップを走り続けながら、表舞台で自分のことをほとんど語ることがないどころか、素で出るのが苦手でじっくり話す番組には出なかったと言います。
今まで語られることのなかった、生い立ちを「金スマ」で話してくれました。
東村山市に3人兄弟の末っ子として誕生した志村けん
1950年、東村山市に3人兄弟の末っ子として誕生した志村けんさん。
祖父母や父親の兄弟も共に暮らす大家族で特に甘やかされることもなく育った彼が、最も恐れる存在…。
それは、柔道五段で、小学校で教頭をしていた父。
冗談が通じない性格で、恐ろしいだけでなく、礼儀やしつけにも厳しかったそうです。
志村けんの人生の転機となった運動会
転機は小学校3年生の運動会、徒競走を前に緊張した志村けんさんを襲った便意。
なんと、スタート直前で漏らしてしまい、この時は情けなさに泣くことしかできなかったそうです。
その結果、クラス中からからかわれるように。
志村けんのお笑いへの目覚め
おもらしのイメージを払拭したい…。
そんな時にたまたま耳にしたレコードが、酔っ払いが登場する落語だった。
志村けんさんはクラスのひょうきんものを演じることにしたそうです。
友達を誘い初披露したコントは酔っ払いネタ。
コント以外にもいろいろとやったといいます。
そして、続けているうちに「人を笑わせるって気持ちいい!」という感情が生まれ、これが志村けんさんの“お笑い魂”の目覚めだったのだとか。
志村けんテレビとの出会いと父親の存在
そして、コメディアンを目指すことになるもう1つのきっかけが、テレビとの出会い。
志村けんさんがテレビで流れる「雲の上団五郎一座」を夢中になって見ていたら、一緒に見ていた父が笑った。
厳格で声を出して笑うことなどない父の笑い声を聞いたことで、コメディアンになりたいという思いが志村けんさんの中で大きくなっていった。
志村けんさんが中学に上がった頃、父は校長を目指し勉強ばかりしていた。
そんな父を見て「つまんない人生だな」と、ますますテレビの世界に憧れを抱く。
そんなある日、父を悲劇が襲う。交通事故に遭い、その時はすぐに退院できたが、その3年後、事故の後遺症で記憶障害になってしまったのだ。
志村けんさんのことがわからなくなり、母には暴力を振るうように…。
志村けんドリフターズとの出会い
志村けんさんがお笑いの世界に飛び込みザ・ドリフターズに加入することになったのは、高校の時夢中になったビートルズが関係していた。
志村けんさんは当時、ビートルズに憧れていて、彼らをまねし、高校生としては珍しいマッシュルームヘアをしていた。
高校2年生の時、ビートルズがコンサートで初来日。
抽選に外れた志村けんさんは、チケットを持っていたクラスの女の子を説得して、なんとかチケットを手に入れた。
その来日公演で前座を務めたのがドリフターズだった…が、志村けんさんが観に行ったのは、ドリフが前座を務めた次の日の公演。当時、ドリフへの想いはなかったと言う。
志村けんがいかりや長介へ弟子入り志願
2人の兄は大学に進学。志村けんさんは兄たちと別の道に進みたいと「コメディアン」になることを決意するが、お笑いの養成所はなく、デビューするには師匠に「弟子入り」か「付き人」からしかなかった。
リーダーであるいかりやさんに弟子入り志願をするため、いかりやさん宅を突き止め、雪の中12時間も待ち続けたというエピソードも。
ようやく会えたいかりやさんから「やめそうな奴がいるから、そいつがやめたら連絡する」と言われ、ただ待つ日々が続く。
やがて高校卒業まで2ヶ月。このまま連絡が来なかったら無職になってしまうという状況の中、その1週間後にいかりやさんから突然連絡が。
翌日から付き人になった志村けんさんでしたが、気がかりなのは記憶と意識が曖昧になった父のこと。そんな志村けんさんの背中を押したのは母の言葉だった。
志村けんの活躍で「全員集合」が再びブームに
そして脱退した荒井注さんの代わりに、急遽付き人から“見習い志村”として『8時だョ!全員集合』に出演。
しかしすぐに花開くわけではなかった。荒井さんの穴は大きく、コントは低迷。
番組の会議が煮詰まる中、志村けんさんが何気なく歌った「東村山音頭」を聞いたいかりやさんに「舞台でやってみろ」と言われ披露したところ、それが大ウケ。
プレッシャーに押しつぶされそうになりながらも、その後「カラスの勝手でしょ」「ピカピカの1年生」「ヒゲダンス」などヒットギャグを連発。
全国のお茶の間の子どもたちに大ブームとなっていく。
志村けんさんの活躍とともに、視聴率もうなぎのぼり。『全員集合』不動の時代が再び始まった。
志村けんコメディアンになって50年・思うことは?
日本を代表するコメディアンのひとりとなった志村けんさんが、いかりやさんの門を叩いてからおよそ50年。
69歳になった志村けんさんは舞台に上がり続けていました。
その原動力は「舞台が好き」ということ。
番組ではいかりやさんの息子にも話を聞き、ドリフターズとして、そして師匠と弟子としてのいかりやさんと志村けんさんの関係について掘り下げる。
志村けんさんはVTRを見ながら涙する場面も。中居からの
「初めて聞く話もあったかと思いますが、志村さんにとっていかりや長介さんはどんな人?」
という質問に、志村が涙を見せて答えた言葉とは。
【金スマ動画】志村けん再放送決定まとめ
昨年の4月に志村けんさんが出演し、今まで語られることのなかった生い立ちやお笑いに対する考えや気持ちなど、今となっては貴重な放送となり、話題となっています。
4月3日(金)20時57分からの「中居正広のキンスマスペシャル」での志村さんの、お話が楽しみですね。